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魚肉が沈殿していることがあるので、よく振ってお飲みください。 ![]() © 2003 高原の鰯水 |
1997年6月3日、横浜セクシュアルハラスメント裁判控訴審は結審した。それから約半年後の11月20日、東京高裁は原審を変更し控訴人の勝訴を言い渡した。
月日は流れ、今年も「第5の事実」があった2月19日を通り過ぎた。あれから丸7年。人死になら7回忌というところ。
誰にも等しくある一生に一度きりの、その日その時が引き起こした裁判は25歳から32歳までの私の時間を支配し、生き方を変えた。キャンディーズが、解散しても普通の女の子に戻らなかったように、私もまた原告でなくなりはしない。
尋問のために繰り返し繰り返し確認し、記憶に刻み込んだ日付や時間。小さい頃よく言い合った「何時何分何十秒、地球がまわって何回目」というあれは子供の戯言だと思っていたけれど、実はこの世界で結構重要なことなのかもしれない。
係争中「裁判は自分を取り戻す作業」だと言っていた。あれは、苦行ではないと思いたいがために自分を納得させようという発想からだったろうか。闘い済んで日も暮れ果て、もう朝陽の中にいる私は取り戻すはずだった自分ではない。
今、解放されたように思う。結審後の半年は、それまでの日々に比べればはるかに気楽だと感じていたけれど、終わってみれば、またそれとは比べものにならないくらいの更なる解放が待ち受けていたのだ。
解き放たれたかったのだろうか。裁判から。自分を取り戻す作業から。縛られていたのだろうか。
性暴力などの被害を受けながら失意と絶望の底から立ち上がった人々を「サバイバー(生還者)」と呼ぶなら、一度負けた私は「ゾンビ」だと、仲間と笑った。
この資料集は5年4ヶ月を共に闘った仲間たちとのユニットの、卒業文集のようなものかもしれない。しかし、内輪ウケして昔を懐かしむものでは、全く、ない。
「『横浜セクシュアルハラスメント裁判報告集』原告Aのあいさつ」より
「横浜セクシュアルハラスメント裁判を支える会」の発足にあたって
1989年以降、セクシュアルハラスメントという言葉は社会に急速に広まりました。福岡セクシュアルハラスメント裁判判決(1992年4月16日福岡地方裁判所判決)は言葉によるセクシュアルハラスメントの違法性を認め、会社の使用者責任を認定するなどこの問題に関心を寄せる多くの女性たちを大いに力づける判決になりました。
そして横浜でも裁判を起こした女性がいます。
Aさんは清水建設株式会社の100%子会社株式会社テクネット機電事業部横浜営業所に勤務し、清水建設から出向していた所長Kの下で働いていました。Kは1990年秋ころから次第に勤務中Aさんの体に触るなどのセクシュアルハラスメントを行い、1991年2月、事務所内でAさんに抱きつき無理矢理キスをするなどの猥褻行為に及びました。Aさんは精神的に深く傷つけられ、Kの行為を会社の上層部に打ち明け助けを求めましたが一蹴され、1991年8月、やむなく退職しました。その後もAさんは屈辱的な思いをさせられた怒り、自分の尊厳を取り戻したいという気持ちから清水建設、テクネット、Kと話し合いをしました。しかし、納得できる回答が得られず、やむなく謝罪広告及び損害賠償を求めて提訴に踏み切りました。
セクシュアルハラスメント問題はまだ、議論の緒についたばかりです。これを社会的にきちんと認識させ女性の人権問題として位置づけさせるには被害者の勇気ある訴えと多くの人たちの行動が必要です。そして判例を一つ一つ積み重ねて女性の性的自由、働く権利の確立を目指していかなければなりません。
わたくしたちはAさんの裁判を真の意味での女性の性的自由、働く権利の獲得のための一段階と位置づけ、積極的に支援していくことを確認し、「横浜セクシュアルハラスメント裁判を支える会」を発足します。
1992年12月
呼びかけ団体
かながわ・女のスペース“みずら”
働くことと性差別を考える三多摩の会
性暴力とたたかう女たちのネットワーク’90
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原告本人が作成し、特に願い出て法廷で読み上げた意見陳述書と、代理人による意見陳述書。 |
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原告代理人(弁護士)による訴状。 |
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1992年7月14日に「横浜S・H裁判」が提訴されたことを報じた新聞各紙。 |
横浜地方裁判所での第一審は1992年7月14日に提訴され、同年10月23日に第一回口頭弁論期日がもたれた。
この日、傍聴席には多くの女性が詰めかけた。人の尊厳を踏みにじる性暴力に対する怒りを共有する人々だった。
原告Aと原告代理人である3人の女性弁護士。それに、数知れない、あまたの被害女性たちの闘いが、ここに始まった。
会報「クラブA」は、一期日終了ごとに、会員の皆さんへその「裁判報告」という形で発行された。
内容は、まず「裁判報告」、そして傍聴の感想や寄せられたメッセージなどの紹介、そして原告Aによる「Aさんコーナー」。
原告Aのあまのじゃく(?)な連載は大ウケで、実は裁判報告よりもこちらのほうが楽しみという声も…。
そのうちに他のS・H裁判原告などとの交流も頻繁になり、そういった各方面の進行状況なども紹介するようになっていった。
ある日、事務局に、
「○○診療所に通院していたのですが、完治したのでもう「クラブA」が読めなくなると思い、先が気になるので入会したいと思います」
といって入会金が送られてきたことがあった。会員には「クラブA」が郵送されることになっている。そういえば、事務局のメンバーがお世話になっている近くの診療所待合室に、「クラブA」を置かせてもらっていたっけな…ということで、男性会員が一人増えたのだった。
支える会と事務局の奮闘により、「クラブA」は、裁判終了まで発行され続けた。
これは“「クラブA」のみんな”が、最後まで希望と明るさを持ち続けていたことの証であると思う。
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一審は1995年3月24日に敗訴した。
負けるとは思っていなかった、「まさか」の判決だった。
一審のとき、原告Aは
「(裁判は)趣味のようなもの」
と言ってのけていた。が、二審では
「(裁判は)持病のようなもの」
と説明していた。
「治るものでないなら仲良くつきあっていくしかない」
というような意味だった。
同時期の八王子S・H裁判原告の言葉。
「正義は必ず勝ちます」
同じく、宇都宮S・H裁判原告の言葉。
「正義が勝つとは限らない」
そして横浜S・H裁判原告のAは、
「正義が勝ったらいいね」
と言って、後々まで笑い合ったものである。
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1995年6月3日、品川区総合区民会館きゅりあんで行われた、「控訴審に向けての集い」呼びかけ文と、これまでの経過。 |
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横浜セクシュアルハラスメント裁判報告集 「From A to A」 |
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横浜裁判前後の訴訟に関する書籍。横浜訴訟に詳しいものも。 |
関連ホームページ |
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