クラブA bP1 

                   1994・10・24  発行 横浜セクシュアルハラスメント裁判を支える会事務局



☆ 裁判報告

 11月8日、2回目の和解期日が開かれました。前回、裁判長から「和解にあたって最低、どの線まで認めればよいか」という趣旨の問いかけがあったので、今回は「原告Aが受けた猥褻行為をその具体的な内容をいくつか挙げた上で、被告Kが行ったことは明らかにしてほしい」という答えを用意して臨みました。そして、被告Kも来所しての被告側の回答は「原告の主張にある行為は事実無根であるが、このように『騒ぎを起こした』ことについては謝罪の意志はある」ということで、和解は決裂。次回、弁論期日が入り、その後結審、判決という運びになるのではと思われます。
 裁判所側からの「この種の訴訟に対する、和解のための見解」というものは全く示されませんでした。
     (文責・ぶっとびのA/監督・高岡弁護士)

 次回の公判  

   1月13日(金) 午後1時20分〜
     横浜地裁501号法廷(JR関内駅徒歩10分)




☆ 強姦とセクハラの間について考える

 ここ2年間、フリーになったせいもあって裁判傍聴の機会が多い。特にセクシュアル・ハラスメントの裁判では、横浜、宇都宮、八王子などに関わってきた。1992年の福岡セクシュアル・ハラスメント裁判の勝利判決以降、新しい状況が切り開かれた。労働省の「女子雇用管理とコミュニケーションギャップに関する研究会」報告などでも、限界はあるものの、セクシュアル・ハラスメントについての定義づけと防止策の提言をしている。このような中で取り組まれている裁判は、原告Aさんたちの攻勢ですすめられ、社会的にも注目をあびている。
 8月末、これらの支援で知ったB市の裁判傍聴に出かけて、私は衝撃を受けた。この裁判は強姦裁判である。正確に言えば、刑事で不起訴となった件を民事で争う裁判である。私が傍聴したのは被告への反対尋問の段階で、最初から関わっていないので詳しいことは分からなかったが、直感的に男の"逆襲"を感じた。それは何なのか、セクハラと強姦の間に深い力関係の逆転があることを痛感した。このカラクリを解き明かすことは、とても重要なことのように思える。
 加害者の男が、強姦ではなく和姦であることを証明するために「好きだった」とか「愛していた」などと言うことは男の常套手段だが、この被告は「原告に好かれていた」「恋愛関係だった」などとさらに脚色してしまう。どう見てももてそうにない、オドオドした「おじさん」の証言に信憑性があるとは思えないが、原告がイヤだと思い、強姦されたと主張していることに、この男は原告をさらに侮辱して、「原告に好かれていた」などと180度の転換を強いる。この攻撃性に怒りと憤りを感じる。
 確かに、強姦罪は被害者の抵抗度を問題にして、かなりの暴行の事実がなければ成立しないという現実がある。しかし、刑事罰が適用されないとしても、被害者の精神的打撃や不利益を救済するために民事で争うことによって、"強姦"を問題にすることはできる。この間のセクシュアル・ハラスメント裁判は、この法律の隙間をこじ開けて女性の性的人権侵害として社会問題化してきたもので、新しい概念を作りあげようとする闘いである。
 ある女(ひと)が端的に言った。「強姦はセクハラの最もひどい行為でしょ」と。長い間、強姦罪・強制猥褻罪という規定しかなかった法的概念に「女性の人権」という観点から迫るのが「セクシュアル・ハラスメント」だ。
 しかし、なぜ「強姦」されてしまうと、「女も合意したのだ」という逆転が起きてしまうのか。そこには、根深い男優位の社会構造と、それを背景とした「性」構造があると思う。「強姦神話」と「性の二重基準」は一対のものとしてある。つまり、「女のイヤはイイの内」「本当にイヤならば拒否するはず」とかいう考えのもとに、「(結果的に)性行為をしたのだから合意したのだ」と決めつけてしまう。圧倒的に男の論理が受け入れられる土壌が日々つくられており、裁判という場も例外ではない。
 「リアル・レイプ」(スーザン・エストリッチ著JICC出版)では、シンプル・レイプを問題にしている。知人や隣人、会社の同僚や上司、さらには恋人や夫による"レイプ"である。シンプル・レイプでは強姦罪として起訴し、有罪とさせることは難しい。しかし、スーザンはシンプル・レイプこそ本当の(リアル)レイプとして、アメリカやイギリスの実例を紹介しながら強姦罪の捉え方に新しい視点を与えようとしている。
 「合意」の基準、「暴力」の基準などを通してさまざまに議論されてきた経過の中で「どう解釈、判断するか」という司法の考えかたこそが鍵なのだと述べている。原告の主張を信用するのか、被告の主張を信用するのかの立場が問われる、法の解釈はその後についてくると言う。
 確かに日本では現在、強姦をめぐる法的状況は厳しい。法改正を要求するとともに、法の隙間に風穴を開ける闘いを通してしか、この状況を変える手だてはない。
 私は改めて、セクシュアル・ハラスメント裁判の重要性を認識している。女が生きがたくさせられたり働き続けるのを困難にさせられている要因の根幹に、日常的なセクシュアル・ハラスメントの構造があり、その典型が強姦である。女である限り、日々心身共に脅かされる危険・暴力から自由ではありえない。
 セクシュアル・ハラスメントの延長に強姦はある。いいかえれば、日常的強姦構造がセクシュアル・ハラスメントだ。しかし、セクハラと強姦の間には深い溝があるのも事実。女にとってのダメージが違う。程度の問題なのか、質の問題なのか深く考察してみないと分からないが、女の落ち度が問われ、敗北感や無力感を伴う「強姦」からの回復には時間がかかる。女同士がつながっていくときに線引きはしないとしても、共通性とともに違いもあるのは現実。その違いについても、フタをしないで話をしていきたいものだと思う。
 ただ、明確に言えることは、セクシュアル・ハラスメント裁判の意義は行為者だけでなく会社の責任を追及し、セクシュアル・ハラスメントを防止していく社会的土壌をつくらせていく力にもなりうる、と私は考える。そのような意味でも、横浜裁判をぜひとも勝たせたいと決意を新たにしている今日この頃です。   (Q)



☆ 最初で最後の(?)とんがらしコーナー

 事務局会議に出ていてもいつも終電の時間を気にしつつお先に失礼をしていてA子さんともゆっくり話せないできた。ろくに自己紹介もしていないというわけである。
 私が「働くことと性差別を考える三多摩の会」のメンバーになったのは、とりもなおさず私自身が大学卒業後最初に勤めた職場で、「環境型」セクシュアル・ハラスメントに苦しんだからだ。福岡の裁判を支援している頃でもあり、私も裁判を考えた。けれどもけっきょく泣き寝入りを選んだのはそれよりも「稼ぐこと」を優先せざるを得なかったからだ。
 私の妹は重症心身障害者である。脳性麻痺のために身体障害と知的障害の両方を背負っている。今度「医療の場での性暴力」を訴えられた某施設に入所している。つまり、親亡き後のことを考えると、私には裁判を起こしてそれを続けるエネルギーはないと判断したのだ。そして残念ながらこれは正しい判断であったと言わざるを得ない。最初の職場を辞めたときは父母は元気だったが、今は父はパーキンソン病を患い母もめっきり体力が落ちてきた。仕事に追いまくられる日々のためにAさんの裁判も途中から傍聴に行けないことが続いた。
 自分が主役の裁判だったら、仕事が忙しいから今日はごめん、妹の面会に行くから今日はごめん、父が転んで怪我をしたから今日はごめんというわけにはいかない。
 だから、私にできることは、いわば私の代わりに裁判を起こしてくれた女たちの支援をほんの少しづつでもすることだ。そしてもうひとつ私の心の中にあるのは、支援を受けるばかりというのはつらいという気持ちだ。いつか私の祖母が言った言葉でもあるのだが。妹が在宅で養護学校へ行っていた頃、私の母は彼女の世話を見るだけが人生だった。私の母も妹も常に人の世話になる立場だったのだ。支援してくれる人や一生懸命やってくれる養護学校の先生をありがたいとはもちろん思っていた。けれども、妹の行っていた養護学校のある先生が自立した女ということである雑誌に載っていたとき、働きたくても妹の介護だけで手いっぱいだった私の母は言った。「助けてもらうばかりの立場の人間のつらさなんかわかってはいないのよね」
 母はともかく妹はこれからもずっと「助けてもらうばかりの立場」である。こんな立場の人間に対する虐待に(性的なものも含めて)もっと世の中の意識が高まってほしいというのが、けっきょくのところ私が「三多摩の会」やさまざまな裁判に関わる理由である。
 自分のやってきたことが、女の人権と障害者の人権とが結びついた裁判につながって少しうれしいこの頃です。
 横浜のAさんにも、ありがとう‥‥‥。




☆ 「あなたが悪いのではない」
   ― 子供時代に性的虐待を受けた女性たちをカウンセリングする ― を読んで

 この本は、カナダで20年間そして現在も、子供の頃の性的虐待・性暴力の被害者を専門とするフェミニスト・カウンセラーのリンダ・ジンガロさんの大阪での講義をまとめたものです。
 性暴力からの生存者として、性暴力の被害者をサバイバーと呼ぶようになりました。それは、自分のつらい性暴力体験を語る勇気に対する敬意を込めてそう呼んでいます。
 昨年東京にリンダさんが講演に来た時に、「サバイバーはどこにでもいて、とても力強く、能力もあり、いろいろ社会的にも活動していたり、有能な仕事をしている人がたくさんいます。」というようなことを言ったのがとても印象に残りました。それは、今までよく言われる悲惨で、かわいそうな被害写像ではありません。
 リンダさんが自らこの本の中でもあるように、性的虐待のサバイバーであると、早い時期から公表して、サバイバーに対する社会的な偏見などと闘っている女性です。
 本書は、フェミニストの視点で説いたサバイバーへのカウンセリング理論と実践、子供の性的虐待の実態、後遺症、被害体験からの回復、その防止法などが書かれています。
 まず大切なのは、性的虐待において責任ある子どもは1人もいないのです。
 子どもたちが、性的虐待を受けた理由は、「そこに加害者がいた」ということです。しかし、どの場合でも加害者がいう理由は、性的虐待を受けた子どもたちの方に責任があるということです。フェミニスト・カウンセラーは、あくまで加害者の方に理由があるからだと考えています。
 また、加害者の9割は子どもにとって身近な人、家族や親戚、近所の人、学校の先生などです。
 サバイバーの問題を考えるとき、境界線=バンダリーがあります。私達は自分の体の輪郭の外側に自分が安心できる適正な広さというのをそれぞれに持っていて、自分にとって不快感のない適正なスペースの限度が境界線です。
 ところが、サバイバーにはこの適正なスペースがわからなくなっているのです。
 子供の頃に性的虐待を受けたことで体の境界線が壊されてしまったので、だれかを愛しすぎたり、深く受け入れ過ぎる傾向があります。ここで、どのようにしていったらよいか?が本書に詳しく書かれています。
 身近に子どものいる人や性暴力に関心のある女性には是非読んで欲しいと思います。   (T)

 「あなたが悪いのではない」 リンダ・ジンガロ著、田上時子監訳、木犀社1,500円
     ビデオ・ドッグ 電話 797−71−810 FAX 0797−74−1888



☆ イトーヨーカ堂セクシュアルハラスメント事件が解決しました。

    ご協力ありがとう! =女のユニオン・かながわの争議=

 《事件のあらまし》 92年7月イトーヨーカ堂A支店で働いていた当時19歳だったSさんは、42歳の管理職から飲み会の後、強姦された。会社は、加害者や周りから事情聴取しただけで、本人の話を聞かず、和姦と判断。精神的に不安定になり休みが続いたSさんに有給休暇が切れた時点で一方的に退職届用紙を送ってきた。Sさんは、退職後、他店でパート社員として働いていたが、そこでも事件の噂に悩まされ、ユニオンに相談にきた。
 交渉を2回した後、会社は団交拒否。93年10月に神奈川地労委に不当労働行為の救済申立を行った。会社は相変わらず、セクハラではないと主張し続ける。94年7月にユニオンは、女性団体や首都圏の労働組合の協力で、東京都内10店舗に一斉ビラまきを行った。この行動を境に、会社の態度が一変。労働委員会の場で和解を求めてきた。3回の交渉の後、協定書が交わされた。

 《解決内容》 謝罪は明記されなかったが、「セクシュアルハラスメントの予防に努める」という一文は入る。解決金は、350万円と判例を上回る金額になった。全国で初めて労働委員会における和解が一定の水準で成立したことも成果だった。
 解決内容に謝罪の言葉が入らなかったのは残念だが、こちらの主張が認められた点も大いにあった。この事件が解決できたのは、被害にあったAさんの努力と多くの人達の励ましと応援の成果だと思う。横浜セクシュアルハラスメント裁判の原告Aさん、裁判を支える会のAさん・Qさんもビラまきに駆けつけてくれた。本当にありがとう。こんなふうにいろんな人達が参加し行動を起こして解決できたのは、ユニオンでは初めての経験。事件が起きたら、会社がきちんと対応し速やかに解決できることがいちばん望ましいが、会社や加害者の対応がひどい場合、皆で助け合い行動を起こし、それが解決に結びつく、こういうのもいいなと思った。これからもよろしくお願いしいます。

 《セクシュアルハラスメントについて思ったこと》
 数件の事件に取り組む中で壁にぶち当たるのは、加害者が事実を全く否定して認めようとしない場合。正確に事実を知る証人は2人だけの場合がほとんど。加害者は人目のない時を見計らい、また故意に2人になって「こと」を起こすのだから‥‥‥。証拠物件なんてある方が希である。
 性犯罪の場合、被害者の主張が全面的に認められないなんて変だ。それどころ過、性犯罪ほど、被害者の主張が信じてもらえず、疑われ、なおざりにされ、落ち度が云々される犯罪はないのではないか?
 つまり、女を信用しないということか。誰がすき好んでそんな嘘をつくだろうか。それとも、「女の思いどおりにはさせないぞ」という男社会の嫌がらせか。さもなければ、身に覚えのある男性が多く(やましいところのない誠実な男性諸氏ごめんなさい)、訴えられると恐怖だからか‥‥‥。
 主張が食い違った場合、状況から加害者が性暴力を行い得ると判断されたなら、「被害にあった女性の主張が全面的に認められる」―――そんな司法を強く望む。そうすれば、裁判にしろ、交渉で解決するにしろ、被害にあった女性が圧倒的に有利になるだろうから。  (こぐま)



☆ 宇都宮裁判報告

 昨年の10月6日の代10回公判で、いよいよ登場とあいなった加害者の言い分は、全く悪びれないどころか開き直ったものでした。この姿勢は12月1日の第11回公判でも変わることはなく、上司の前で謝ったことについても本意ではないと言いたげ。そして何と!「Kさんには今も悪いことをしたとは思っていない。謝るのならKさんにではなく妻にです。」などとトンチンカンなことを言って終わったのでした。
(すみれの会会報「すみれの風」第11号およびKメモを参照させていただきました。P)

 次回の公判   第12回 2月2日(木) 午後1時15分開廷です。
   詳しく知りたい方、Kさんを励ましたい方は、「相互支援 すみれの会」まで。




☆ 短信

◎ 矢野問題の3つの裁判は、矢野の再三にわたる東京での開廷要求が却下され、京都で行われるようになりそうです。

◎ 11月13日、障害者A子さんへのセクシュアル・ハラスメントを許さず、裁判を支える会(仮称)の発足集会が開かれ、200名もの参加がありました。

◎ 八王子裁判も加害者の登場となり、横浜・宇都宮と同様開き直っています。特に校長であることでその人柄の良さが強調されるといった加害者代理人のやり方がミエミエ。
 次回公判  1月30日(月)午前10時30分より。多くの参加をよろしく!




☆ Aさんコーナー

   「小心な心証」

 「心証」 @こころに受ける印象「‥‥‥を害する」
       A裁判官が訴訟事件の審理においてその心中に得た認識ないし確信。

 「ゴメンで済めば警察はいらない」‥‥‥警察へ行ってもゴメンで済んでしまったらどうしましょう。

 時間の浪費でした。
 期待は気体のように実態が無く、煙のようにつかみどころの無いもの。諸行無常、世の中そんなものでしょう。限られた情報から真実を紡ぎ出すことはさぞ難しからんとも思います。ひとつの裁定が人の一生を決めることもあるでしょう。しかしだ。申証はなくとも、信条に基づき、心情に流されることなく、原告と被告の真情、及び心象を見定めることこそ、裁判官の身上でありましょうや。
 力んでも仕方がない、実は真実など問題ではないようだから。ただ、争いごとによる最悪の事態を回避するためにどちらが正しいか決めてやる。そうすれば覚悟がない限り報復は避けられる。それが司法の役目。
 考えてみれば法律は人が作ったものでした。常識もそう。多数決によるもの。協調性ですよ。私がしていることは、私が正しいから認めろというのではなく、こういう珍しい意見もたまには認めてほしい、そういうことになるのですね。
 3年間いろいろやってきました。それなりに進歩はしました。でも向上したとはいえるのでしょうか。あと数回の弁論の後、判決が出されます。どんな判決が出ても、大して驚きはしません。それが正義であるとか悪であるとか、そんな客観的な判断によるものより、自分がそれをどう思うかが全てであるようだから。他人や世間に認められることも沿うのも無理とあらば、思い切るしかないでしょう?精魂傾けて思い入れたって、何も伝わらず、なんの成果も得られない。だったら自己満足だけしていればいいではないですか。人の世話を焼いても、うっとうしがられるだけ。なら、自分の面倒だけ見ていればいいではないですか。結局人は自分以外のものを認めないでいるのがいちばん快適なのだから。だれも助けることなど出来はしない。
 今にして思えば、時間切れでそこだけ私の作った文章ではない、意見陳述の最後の1行。「私の受けた心の痛みを理解し、正しい判断をお願いします」ほら、この心構えはやっぱり違っている。これは私ではない。
 年が明けて桜のころには私も29になる。学生でなくなって10年。この間、手に入れたものは全て失った。10年間、一体私は何をしてきたのだ。集大成がこれであるとは。そういえば中学の卒業文集に「将来何になるか」というテーマで私はこんなことを書いている。「世の中の役立たずになっているでしょう、きっと」‥‥‥15で人生見切ってたのね(笑)。




《 編集後記 》

 おめでたい年に今年はしたいネ。今回のクラブAは、とても遅れて発送することになってしまった。これは何が原因かと申すと、原稿〆切り日を守らない奴のせいです。今後こころしておくれでないかい!でないと正月もおちおち‥‥‥ぐちぐち(P)

 「合理的」という言葉に酔いしれている。何事も無駄なく明るく、物事はよい方へと解釈すれば、人生結構楽しいぞということらしい。今さら楽観的になどなれはしないが、合理的ということら受け入れられそうだ。(悲観主義のぶっとびのA)




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