魚肉が沈殿していることがあるので、よく振ってお飲みください。
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父の死~通夜~告別式

【10.11.20~11.25】


11月20日(土)

我が家の絶滅危惧種:大トラ一頭、06:05、永眠。

早朝の電話で病院へ急行するも、既に。
…全く、せっかちな人だ。享年72歳というのは、私は別に早いとは思わないけれど。
胆管癌がレベル4で発見されて、3月に宣告された8ヶ月満了。さすが、がんセンターの医者はプロ。

さて、忙しくなるかと思いきや、意外に平静。
斎場が連日満員御礼だそうで、告別式は25日に。それまでヒマだし、弟夫婦も帰ってくるから、仕事にでも行くか。



2月初旬、入院先の横浜中央病院。洗車してピカピカになった愛車を見に車寄せまで出てきた



2月半ば、県立がんセンターに転院してしばらくした頃


毎日紅葉を楽しみに眺めていた窓の外の桜の葉がほとんど落ち尽くしてしまった。まるで父の禿げ頭のようだ。
今晩はまん丸の月が明るかった。まるで父の禿げ頭のようだ。
禿げ頭しか連想しない。(笑)


 
3月末頃、赴任先から一時帰国した弟と


ロビーで勤務先に携帯で電話をかけるの図。さすが現役社員。メモは必須




 
弟が帰った2日後、なぜか急遽退院した


さて、葬儀屋で提示された棺100,000円。ネットで調べたら1万円だった。同じく骨壺1万円は1,700円。なんだそれ。
祭壇1,200,000円というのがいちばん納得いかない。だってあんなの、張りボテに光る布をひっかぶせて生け花を並べただけじゃん。
終わったら分解して、葬儀屋がまた次の葬儀に使いまわすだけでしょ。何でそれで1,200,000円?軽自動車買えるじゃん。
総額2,500,000円の葬儀見積もりは突っ込みどころ満載。明日、弟が帰ってきたら要相談。



4月半ば、数日入院した時に、福島の伯母と従弟がお見舞いに来てくれた


ゴールデンウイーク、旧知の人たちも退院を聞いて訪ねて来てくれた


(マウスオンで巨人族!?)
6月半ば、福島の従姉たちがお見舞いに来てくれた。身長172cmの父と、162cmの母を囲んでこの状態。デカ過ぎる一族。


11月21日(日)

みんながやっているので私もやらないと不自然かとも思って、近寄って、布をめくって、言葉をかけてみたけれど…怖いだけだったな。
「30、なにしとんのじゃ!」
と、三白眼のギョロ目で怒られそうな気がした。
そんなもの。
大体、父と近くでまともに話など、したこともそれほど無いし。
もう近寄って顔を見るのはよしておこう。
触れたとき、ぐらりと揺れた頭が恐ろしかった。
 そんなもの。
涙が出るのは父の死を悲しんで嘆いている人の様子を見たとき。私自身が父の死を悲しんでいるのでは全く無い。
私の身に何かが起きたときの父の反応も似たようなものだった。
「また面倒事か」
という迷惑そうな顔。母が騒ぐから対応しなければならないかと、仕方なさそうな。


 
8月半ば、一時帰国した弟と箱根の日帰り温泉へ。もう、だいぶ痩せてしまった


昔は風呂上がりにはビールだった人が…
(写真クリックで貴重な音声映像)


弟's嫁さんのご両親が遠路はるばるお見舞いに来てくださった。庭のプチトマトが実っていてうれしい父2人。




11月22日(月)

にわか雨が降る日は、私が外へ出ると降られる。帰ってくると止む。典型的雨女。今日も配達に出たときだけ降られた。
帰宅して晩の豚汁を作りながら、母と、運が悪いという話になった。
30「金運無いし、男運無いし、ロクなことないし」
母「アラ、これからよ!つっかえていたお父さんがいなくなったから、これから運が開けてくるんじゃない?」
30「そうかなー…」
月なのかツキなのか尽きなのか。保護者だったのか障害物だったのか。よくはわからない。
けれど18日だったか19日だったか、朝方に見た夢は大洪水だった。
 湖(どういうわけか浜名湖)の濁った水が豪雨であふれて町が沈みそうになっていた。
高波が押し寄せ、竜巻のように水柱が立ちのぼり、それはそれは恐ろしい様子だった。
自分は危険を察知して、湖から離れた高台へ避難したほうがいいと周りの人たちに警告しながら、その光景を眺めていた。
夢診断等では、「洪水」はたいてい恋愛系の抑えきれない感情と出ているけれど、
自然災害と捉えれば、自分の意志の力ではどうにもできない宿命的な出来事を予言していることにもなるらしい。



9月半ば過ぎ、箱根仙石原の日帰り温泉へ。これが父の最後の湯治になった


(マウスオンで写真がチェンジ)
11月初旬、突然の下血で血圧急低下、危篤状態と言われて飛んで戻ってきた弟。
ところが輸血で持ち直し、翌日、福島や東京から大挙襲来した親戚軍団を見て、父曰く、
父「なんだこんなに来て!おれ、明日、なんかあるのかな?」



それにしても、葬儀屋の見積りは高い。
人がひとり死んだだけで、なぜ数100万ものお金がかかる???
祭壇が1,500,000円だというから写真を見せてもらったらすんごいやつだったので、ランクを落として1,200,000円にした。
それでも馬鹿高くて腹が立ってくる。
それから、無宗教なので坊さんと読経は要らないといったらいきなり320,000円下がった。
檀家でもないし、パートタイムでその日だけ経を上げに来る坊さんなんぞ有り難くもなんともないし、
父も私も神仏は信じていない。
それから生花。喪主用一対150,000円って、どんな所に咲いているどんな珍しいお花なのかしら?
15,000円(これも冷静に考えれば十分高い)の普通の花にした。
あと、棺の中に入れる「枕花」というのが笑った。普通の枕にプスプスと花が挿してあるだけで30,000円!(笑)
どう考えてもいらな~い!!
こんなものを“葬祭ディレクター”の言い値で買ってしまうというか、ワンセットで頼んでしまう方がどうかしている。
それに、無宗教だって言っているのに高級木材で特別に作ったお数珠30,000円をかたち通りに勧められた。
要らないと言った。
…値切っているのではなく、ムダを省いているというか、ある意味“事業仕分け”か!?

 うちは父がどうしても乗りたくて買った一応は外車のフォルクスワーゲン:パサートだし、
父が輸入関係の仕事だったから父秘蔵のウイスキーやワインのコレクションを祭壇に飾ることにしたし、
弟夫婦は海外赴任中でハンガリーから成田経由で帰ってくると打ち合わせ中に電話が入るし、
六本木に住んでいる従姉妹はポルシェ:カイエンで毛皮をまとって駆けつけてくれるし、
告別式にはニューヨークへ行っているから出られないとか、しょっちゅうシンガポールとか行っちゃうから忙しくてとか、
 従姉妹「主人は昔デュッセルドルフにいたの」
 弟「あー、そうなんですか!デュッセルドルフ、いいところですよね!!」
従姉妹ご主人「ええ
なんて、何か思いっきりイヤミに聞こえそうなインターナショナルな会話が飛び交っちゃって、
30「なんだよコノヒトタチ、あたしなんか江ノ島とか佐渡ヶ島しか行ったことないっていうのに」
母「(爆笑)」
…硬い笑顔の葬祭ディレクター氏は最初、いい「カモ」だと思ったに違いない。それが今はきっと、
「金持ちほどケチだ…」なんて勝手に思っているに違いない(笑)。
実は全然金持ちなんかじゃなくて、ただ見栄っ張りなだけなのに。(大笑)





お通夜や葬儀の時にお経代わりにかけることになった、父の好きだった石原裕次郎のCDを買いに行った先は、
私の発案で
「ブックオフ」。(笑)
母「一度使うだけだから安いのでいいわよ」
というから100円ショップに行ってみたけれどさすがにピンと来るものが無く、仕方なしにブックオフ。
そうしたらたまたま300円引き特売の品があって、母ホクホク。
好きだったならなぜ家にCDぐらいないのか?と思われた貴兄よ、父は
「カセットテープ」
しか持っていなかったのだ…。

…「ケチ」と「分相応」を混同してはいけない。


11月23日(火)

昨日は、祭壇に置くワイングラスを買いに走り回った。
葬祭ディレクター氏は適当なグラスでいいですと言っていた。
でも私は、それがものすごく納得いかない。だって、輸入卸で長年洋酒を取り扱っていて、
ワインが好きでウンチクを語らせたら話が長くてつまらなくてどうしようもない父だったし、
現役で死んだから会社からお手伝いの人が来てくれるし、取引先の会葬者もそれなりに多いはず…。
仮にも支店長(会社が小さいので全然偉くないけど)だった人が、
そのへんのスーパーで売ってるような安っぽいグラスでいいわけが無い!!
…と、私が言い張って、弟と母と京急百貨店に寄ってみた。でもブランド品は値が張るだけでピンと来ない…。
そこで、最初から考えていた港北のIKEAに行ってみた。
…わはは、390円ぐらいでいいヤツがあった(笑)。安くても、日本人感覚の品じゃないから、納得できる。
何かというと「故人の…」とか言う葬祭ディレクター氏こそ、故人の事をわかっていない。
(ちょっと専門的過ぎてわかりにくいかな…まあ、あまりわかるつもりもないのかもしれないけれど)





「普通」とは何か、を、昔から問い続けているのかもしれない。
「普通の人」。
父が忌み嫌ったのも、私の
「普通でなさ」
かと。でもその父も、普通だったとは言えない。
私が普通でないから父も普通でなくなったのか、父が普通でなかったから私も普通でなくなったのか、例の
「ニワトリとタマゴ」。
うちの場合は親と子なのだから、先に存在していたのは父だけれども。
…父が死んだ日の夜、母と私のふたりの晩飯の時に母が言った。
「とうとうお父さんは30のことを認めなかったもんね…」
母が、こう言う。

私と父の普通でなさをいくら説明しようとしてみても…他人にわかることではない。
そして、他人には理解どころか想像さえもできないことだから、
単に、残った私が人の目に
「バカ娘」
と映るだけ。親戚の数人は私と父の確執にうすうす気付いてはいるけれど、それでも、
「死んだ時ぐらい…」
と思うだろう。
父はこうして、最後まで私に罠を仕掛けていった。
これからの通夜と告別式で、来てくれる人たちは私を鬼のような娘だと思うだろう。
そうさせているのが父だと、気付く人は皆無。全く、鬼のような父親だ。


私は子供の頃から「変人」と言われたり、そういう扱いを受けてきた。
「普通」
でないことは、わざとそう在りたくてしているつもりはないし、なりたくてなったのでもない。
でも実際に私は、普通でなさ過ぎる。

中学生の頃だったか、さだまさしの「親父の一番長い日」を変な歌だと思った。
あの歌に出てくる親父とは一体どこの世界の人かと。
娘がかわいくてたまらないという父親の話を聞くたびに
「それはおかしい」
と思っていた。

今、普通のお父さんたちが、30という「娘」を見れば理解できないだろう。
普通のオバサンに見える30が、父親の話になるとなぜ憎々しく不可解でキツイ反応をする嫌な女に豹変するのか、
永遠に理解できないだろう。
それは、その人たちが私の父を、自分たちと同じな
「普通の父親」
だと思い込んでいるからだ。
思いつかないのだろうな、「結果」には「原因」があると。
「この親にしてこの子あり」
という諺もあるのに。(父には、さらにその父と母がいたということ)


母が一周忌まで納骨せずに部屋に置くという。それ、やだな。
私にとっての父をひと言で表せば
「怖い人」
…そういえば昔、父の母(私の祖母)が、戦死した父の父(同じく祖父)の事を
「怖い人だった」
と言っていたっけ。


11月24日(水):通夜

1999年の7月、母方の祖父が亡くなった。あの時、私は恋をしていた。後に結婚した元連れ合いだ。
私は33歳だった。
2010年11月、父が死んだ。私はまた恋をしている。先の事はわからない。
毎度おかしなタイミングというやつ。縁起でもない不幸の始まりの暗示どころか現実なのかも。
18:00通夜開始予定。
家のピーたちのために開けておくカーテンを閉めるためと、毎週水曜に来る生協の生鮮食料品の受取ボックス回収のため、
通夜終了後、私はいったん帰宅する。作業完了後また葬儀場へ。今晩は寝ずの番なんでしょ。
明日の朝は朝食前にまた私が家に走る。ピーたちの水交換とカーテンを開けるため。
葬儀場に戻って10:30からの告別式になだれ込む予定。
えーと、「お焼香」の正式なやり方ってどういうんだっけ?(笑)



 (マウスオンで写真がチェンジ)
伯父と伯母。5人兄弟だった父だけれど、とうとう2人になってしまった。
父といちばん血の繋がりの濃いこの2人の悲しむ様子を見るのは辛かった。




叔父と叔母。
うちから車で10分少々のところにばーちゃんと住んでいる叔父は、父が死んだ直後から、もう何度も来てくれている。
「お宅のお父さん、ちょーっと苦手なんだよなぁ…」
と苦笑しながら言っていたくせに、いざ死んでしまうとこんなに悲しがる。



 (マウスオンで写真がチェンジ)
特に洋風は望まなかったけれど和風にはしたくなかった。派手にもしたくなかった。ただ、品位は落とさないようにと。
花の色も白~青系という難しい注文。



 (マウスオンで写真がチェンジ)
父の洋酒コレクションの一部。なんったって入社の動機が「酒が好きだったから」…。
酒を扱うだけなら町の酒屋だって飲み屋だっていいはずなのに、なぜ酒・たばこ関係の輸入卸商?答えになっていないぞ、父。

後日判明した新事実…。
祭壇に飾った、ワイングラスに注いだ赤ワインなのだが…
母によると、この赤ワイン(白もあるそう)は父がいつも
 「とっておけ」
と言い続けてきたものだそうで、とにかくこのワインをえらく大切にしていたというのだ。
横高(横浜高島屋のこと)へ買い物に行った弟が洋酒売り場で見てきたところ、なんと
130,000円
…だったそうだ…!!
2本で、260,000円…
…ほんとかいなそうかいな!?と、たまげてしまった。

僧侶は呼ばない、お経もあげない、線香も必要最低限のものしか焚かないということで、
30’実家残り2名(母・30)&弟夫婦プロデュース「音楽葬」の通夜の幕開け。
初めての我が家のお葬式にして初めての音楽葬。どういう事になるのか皆目見当もつかず…。

1分間の黙祷のあと、石原裕次郎「北の旅人」をまず全員でしんみりと聞く。
いきなりな泣かせるギターの旋律で、親戚一同泣きまくり。
飲み屋で聞けばいい気分な歌かもしれないのに、なぜこんなに泣かせるのか?
(母・30・弟は事の成り行きに固唾を飲んで、まだ泣いている場合ではなかった)

2曲目「夜霧よ今夜もありがとう」から焼香開始。「ブランデーグラス」…お経なんかより断然いい!
妙に歌詞を聞き込んでしまってご挨拶も忘れて焼香台を見つめてしまう私と母。
いつものようにテレビの前で、サキイカとかつまみながら、父が、好きな昭和ヒット歌謡とかを見ているようだ。
そういえば父は時々歌っていたけれど、超音痴!(笑)
…「粋な別れ」、「赤いハンカチ」、「二人の世界」と焼香が続き、突然のように「我が人生に悔いなし」

鏡に映る 我が顔に
グラスをあげて 乾杯を
たった一つの 星をたよりに
はるばる遠くへ 来たもんだ
短かろうが 長かろうが
我が人生に 悔いはない

後ろの席の方ではほぼ号泣の人もいたけれど、これも音楽葬のいいところ、すべて歌に吸い尽くされてしまう。
少しばかりお話しをしても、ハナをすすり上げても、おなかがグーッと鳴ってしまっても、物音はみんな裕次郎の歌になる。
まるで父が裕次郎級のナイスガイにさえ思えてくる。出来過ぎだ…(笑)

この世に歌が あればこそ
こらえた涙 いくたびか
親にもらった 体一つで
戦い続けた 気持ちよさ
右だろうと 左だろうと
我が人生に 悔いはない

…この2番が終わったところで、全員の焼香が済んだ。3番の歌詞が式場内に響き渡る。
 
桜の花の 下で見る
夢にも似てる 人生さ
純で行こうぜ 愛で行こうぜ
生きてる限りは 青春だ
夢だろうと 現(うつつ)だろうと
我が人生に 悔いはない
我が人生に 悔いはない

…曲順も時間も何も計ったわけではない。
ブックオフで買ってきた中古CDから何曲か選んで、弟がMP3変換してCDRに焼いただけのものだ。
なのにジャストミート!心臓えぐりまくり。
…「我が人生に悔いはない」と歌いながら祭壇で微笑んでいる父…ハゲのくせにカッコつけ過ぎだッッ!!

 …さて、このあと静かに1曲聞いてクールダウンしてから次のステップに…という順でかかったのが宗次郎のインストゥルメンタル…。
何かが降りて来ているのではないかと怖くなった…。
そのあとは音量を下げてナレーションが入ったりなどしてBGMっぽくなってしまったけれど、
美空ひばりの「愛燦々」、「みだれ髪」、「川の流れのように」で終了。
喪主の母に代わっての弟の挨拶が素晴らしく、嫁さん'S父が小さくガッツポーズを見せるほどだった。
いや、それにしてももう、会葬者全員が裕次郎ファンになったこと間違いなしと思われるお通夜だった。(笑)
父の古い戦友のような仕事仲間や、会社関係の人たち、
団地のゴルフクラブ=通称“大トラの会”の面々や母のお友達もたくさん、
食堂の時間ギリギリまで大変に賑わった。
時刻はほぼ21:00近く。予定通り、このあと私は離脱して家に行き、再び斎場に戻ったのが23:20頃。
なんと、残りの料理+向かいのコンビニで買ってきたビールやウイスキー等で親戚一同の盛り上がりっぷりは最高潮!!(笑)
そして、都内在住の従姉が明日仕事なため終電で帰るというので横浜駅東口まで送る。
斎場に戻って来たら01:00をまわっていた。
しかも、寝ずの番をすると言っていた母まで全員がすっかり眠りこけていて、料理もスッカリ食い尽くされていて…
それを予測して買ってきたコンビニのおにぎりを人けのない寒い廊下でかじってから着の身着のまま布団をかぶって寝た。




父の名は「勝」と書いて
「すぐれ」
と読む。正しく読まれることは、まず、ない。
スグルでもマサルでもないこの名前はちょっと珍しい。
父が3歳の時に太平洋戦争に出征して戦死したという祖父が、勝利を願って…とか、
日清戦争で日本が勝ったから…とか、よくはわからないけれど戦争に勝つという意味ではあったようだ。
この姓名合わせて三文字の名前を、読めない書けない意味もわからない妙チクリンな戒名などに変えたくなかった。
だいたい神仏を信じない父が、なぜホトケの御弟子になる必要がある!?
親につけてもらった立派な名前だ。72年間生きて使ってきたこの名前を、堂々と名乗ればいい。
父は、死んでも「〇〇 勝」だ。


 


11月25日(木)、告別式

エヴァホール横浜。京浜急行:屏風ヶ浦駅そばにある。
「横浜」
というところが気に入った。でも屏風ヶ浦。
(笑・横浜市民でない方々には十分横浜っぽいはずだけれど、ジモティだと「え~!?そこ、横浜じゃないじゃん!」って感じ)
車検から戻ったフォルクスワーゲン:パサート父号に、父はもう、乗ることはなかった。
10月14日、父と母との2人で箱根湯本の富士屋ホテルへ一泊旅行へ行き、
26日に母を乗せて病院へ行ったらその場で入院を言い渡されて、
私が相鉄線に乗ってパサートを取りに行った。
母からの電話で
「入院」
と聞かされて、もう、父は、家に帰って来ることはないだろう…
と、思った。

 

丸に釘抜きの家紋に、誇らしげな「勝(すぐれ)」ひと文字。
名付けた祖父は「寅之助」という名前だったそうだ。それもすごいけど。
ちなみに母方の祖父は「寅蔵」だった。どういうわけだかトラだらけ。娘の私は丙午(ひのえうま)ときたもんだ。やれやれ。

05:00起床。3時間半は寝ている。ピーたちのためにカーテンを開けに、家に走る。
朝っぱらのR16はガラガラ。最近どうも度が合わなくなったような気がするコンタクトではなく、メガネで運転してみる絶好のチャンス。
…うーん、何だか片目で見ているような微妙な距離感が…!!(笑)
でも、朝焼けがとてもきれいだった。7:30頃斎場に戻って8:00から朝食。
この斎場は「仕出し」ではなく一切を斎場内にある調理場で作っている。なので朝早いのにスタッフがやたら大勢いる。
届いたお弁当を配膳するだけなのとはやはり断然違う温かみが嬉しい。
しかし、NHKのニュースも何もない静まり返った食堂で
タクアンを咀嚼する音だけが響き渡る“お通夜のような”朝食というのはどうよ。
夕べの宴会の余韻もどこへやら、
「お吸い物がいい味!」
とか、
「これはゴボウかしら?」
「大根じゃない?」
「シャケがちょっと塩辛い…」
「でもちょうどいい大きさだね」
「あ、海苔のお醤油?」
「大きな梅干!」
「そろそろお茶入れましょうか?」
嘘臭いくらいにそそくさと静かに進行する、斎場に泊まった親族12人だけの朝食タイム。
今から今日の“行事”の重さが予想されるような、そんな空気が嫌だった。

焼き場で待っている間の控室で出すお茶菓子が足りないと母が言い出したので、目の前のコンビニまで買い出しに行く。
なぜだか伯母までついて来た。突然、超甘いアイスクリームが食べたくなり、買ってしまう。

身支度整え、スタンバイOK、着替えた親族…そこここに散らばっていると、ロマンスグレーの紳士が。
「△△です」
!社長だ…
同族会社で、息子が跡目を争ってはいるけれど、不況で余り状況のよろしくない輸入卸商社。
それが父が50年勤め続けた会社。
最後は血族以外でただ一人の代表取締役員に名を連ねたうちの父。
相当とか言うどころではないようなエゲツナイ苦労があった。
私も小さな頃はよくはわからなかったけれど、
結構早い段階で“お父さんの会社”は「酷いところ」だというのは認識していた。そこの、
「社長」
が、来た。いや、お見えになった。(だから私には父の勤めていた会社の神戸本社は「敵」という認識が消えない)
母に続いて私、少し離れたところにいた弟夫妻も鄭重に挨拶をした。

しばらくして告別式が始まる。
弟が、夕べ私がいないうちにディレクターと打ち合わせをしたのだろう、今日の1曲目は「我が人生に悔いなし」だった。
…なぜだか「痛快な気分」だった。
現世利益にせっ突かれて未だもがき続けている人たちから離れて、父はすっきりと楽しそうに酒を飲んでいる。
そんな気がした。
2曲目からは昨日の通り。「夜霧よ今夜もありがとう」から焼香開始。
「ブランデーグラス」、そこで全員の焼香が終わった。
…恐ろしいことに、また来た!静かに聞く次の曲は、「粋な別れ」

生命(いのち)に終わりがある
恋にも終わりがくる
秋には枯葉が
小枝と別れ
夕べには太陽が
空と別れる
誰も涙なんか
流しはしない
泣かないで 泣かないで
粋な別れをしようぜ

生命(いのち)に終わりがある
恋にも終わりがくる
はかない生命(いのち)
せつなくもえて
どこか消えてゆく
煙草の香り
恋の行方なんか
わかりはしない
追わないで 追わないで
粋な別れをしようぜ

不謹慎と言わば言え、笑いが込み上げてくるような痛快さだった。
恋の相手は母だと思った。
煙草は吸わない。
とにかく、父は粋な別れを、やってのけたのだ…!!
多くを言わずどころか何も言わず、父ははにかんだような苦みを含んだ笑顔で、向こうの世界へ行ってしまったのだ。
もう、呆気にとられて見送るしかない。
「うちのお父さん、かっこいいだろうっ!!」
と、誰かに詰め寄りたいような気さえした。かっこ、つけ過ぎだけどね…誇らしかった…。

会葬者全員で父の周りに花を入れた。
父には、ワイシャツにネクタイ、替えズボンに金ボタンのブレザーという、とてもよく似合ったいつもの服を掛けて。
そうさ、父はスーツにネクタイ!それしか似合わない。

このあとの弟の挨拶は…お通夜の時以上に素晴らしい出来だった。
いつの間にか、いい大人に育ったなぁ…と、私は夕べから感心しまくり&自分を卑下しまくりだ。
弟よ、君に瑕疵があるとすれば、それは私という姉がいることだ。全く君の責任ではない。

出棺。
娘ともあらば涙にむせんで…というのが普通なのだろうけれど、私は決然と顔を上げ、
たぶん眉根に皺を寄せ、若い頃の父そっくりな顔で、緊張もせずに堂々と歩いた。
「私の父が通るのだ。みんなよく見ろ。これが私の父だ!」
お忙しい中、遠いところをわざわざお越しくださっ…た方々に、病み衰えて朽ち果てた父ではなく、
72年間を生き抜いた父の気迫を、感じてほしかった。
伝えたかったのではなく、感じさせたかった。
たぶん父は、こんな私を
「やり過ぎだ」
と怒るだろう。
でもね父、私が言わないで誰が言う?うちのお父さんすごいんだよと、私が言わないで誰が言う?
「まぁ…しゃあない」
と、最後はきっと。
「おまえは、わかっとる」
と、いつか酔っ払いながら言っていたように。




屏風ヶ浦の斎場から久保山斎場へ向かう途中、R16磯子区中浜町の八幡橋交差点に差し掛かった。
ここを直進すれば、父が土日祝日でも通っていた港の会社へ行ける。もう、会社へは行かないよ。



 (マウスオンで写真がチェンジ)
初音町交差点から三春台の坂。この先の峠、境の谷を越えると、藤棚へ下り、R1と交差する浜松町交差点に至る。
さっき別れたR16とはそこで再会する。あの紅葉は、春には花だった霞橋の桜
…ところで。葬列には割り込まないというのは、道路交通法には無い暗黙のルールだと思っていたのは、私だけ?


柩の向こうの扉が開く。あそこへ入ってしまったら、もう父の体はなくなる。
よろしいでしょうか、と、係の人が聞いてくれる。
母が、もういちどだけ顔を見せてと言うと、では少しだけと言って…母と、弟と、私だけが、そばへ行って見た。
公営の斎場にしては格別のサービスかと思えた。
扉の向こうへ、柩が入れられる。
扉が閉まる。
静かな気持ちだった。

控室に案内される。親族だけ10数人でお茶菓子など。
実際、遠くにいる親戚なんて、冠婚葬祭の時ぐらいしかゆっくりと会って話したりするようなことはないので、
こういうひと時は楽しい。
写真の煉羊羹は、アルコール禁止となって突然甘党に変身した父がよく食べていたもの。





係の人が声をかけに来て、やがて放送で呼ばれる。

さっき閉まった扉が開いて、中が見えた瞬間、

「なんだこれは!…」

と衝撃が走った。
そこには、さっきあった柩は無く、真っ白い骨があるだけだった。白い白い、雪の塊のような、ただ白い骨。
「こんなになってしまったのか…」
急に何かが空虚になった気がした。
あとで聞いたけれど、弟は、父の周りに花を入れた時だったそうだ。
「今まではこっちにいたのに、あのとき、『お父さんが向こうへ行っちゃう!』と思った」
と話していた。

そのあとは、またみんなでマイクロバスに揺られて屏風ヶ浦へ戻った。
眠たくて、持たされた父の遺影を膝に、うつらうつらしてしまった。
精進落としも済んで、果物も分けて、名残りを惜しみながら親戚一同を見送った。
弟's嫁さんはご両親を横浜駅まで送って行った。
母と弟と3人で花やらお返し物やら何やらいろいろと積み込んでパサートはさながら貨物車のよう。
最後に父を乗せて帰宅する。
仏壇は無いので、葬儀屋さんがくれた(費用に入っているのね)塗りの祭壇に花やお供物などと一緒に並べてみる。
何だか変な感じだ。部屋に父のこんなに大きな写真があるなんて。
線香を焚いてみたらば鉄筋コンクリート造りで密閉度の高いマンションでは窒息死しそうになったので、換気扇を回す。(笑)
なんだかドタバタと、旅行から帰った時のような慌ただしさというか…?
ひと息ついてから、YOKO号でふらっと買い物に出た。
「晩ごはん何食べるぅ?」
と言ったら
「軽~く、おそばがいい」
「じゃ、かき揚げでも買ってくるー?」
本牧サティ(でも「マイカル」って言う)の100円かき揚げを目指して走ったけれど、時間が遅かったので売り切れ。
FUJIシティオ(でも「富士スーパー」って言う)で調達する。
得意のそばつゆを作りながら、
「な~んだか年越しそばみたいだね~!(笑・私の作るそばは時々絶品♪
春頃、退院してきた父に作ってやったら、「旨い!!」と言ってよく食べた)」
帰ってきた嫁さんと4人で、在庫豊富なワインを開けながら。
親戚からもらったお菓子をいろいろ開けては切り分けてひと口ずつ味見をしたり。
パパイヤってどうやって食べるのさー!?なんてネットで検索したり。
…悲しみに打ちひしがれてというようなことの全く無い明るい我が家が、我ながらおかしくて、平和でアッパレ。


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